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1921年に祖父が始めた食肉店。 信用第一を念頭に、決済は固く約束を守り事業を大きくしていきました。

1980年、父がホルモン卸業としてリキフーヅを立ち上げました。

その後、ブロック肉の販売と加工、枝肉の仕入れと事業を拡大。

現在は「と畜からお届けまで」徹底的に品質にこだわってお肉を生産しています。

祖父が築いた信用と信頼を、父が育て、私たちが受け継ぎました。

- 祖父が遺したリキフーヅの原点 -

私の履歴書

荒井熊吉

私は明治三十五年五月十二日千葉県山武郡蓮沼村の漁村の六人兄弟の次男として生れました。

幼い弟、妹のために子守りなどして漁にいそがしい両親の代りにいろいろ家事の仕事を手伝いながら

小学二年まで村の小学校に通いました。

当時は日露戦争後のときで政治、経済等の事情も悪く農漁村の子弟は皆、都会へ奉公に出された時代でした。

私も家庭の事情のため学校を二年でやめて明治四十四年九才のとき上京しました。

東京本所徳右衛門町の鋳物師のところに住込みとして働きました。

当時の主人は大変研究熱心な人で鋳物の改良工夫に利益の大半をつぎこんでいろいろ新製品を作りましたが大正九年大暴落のとき、 私が働いてから丁度十三年目に倒産してしまいました。

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私も朝早くから夜晩くまで真面目に一生懸命働いたので、主人から一番信頼されておりました。私も現在考えますと、当時の主人の研究心のお蔭で後年の食肉経営にいろいろ工夫改善したことが大へん役立っていることを感謝いたしております。主人が倒産した十九の年に主人のすすめで食肉業になる決心をしました。

私が江東の亀戸町に食肉店を開いてから間もなく大正十一年徴兵検査をうけて甲種合格となり、現役兵として千葉県津田沼鉄道第二連隊に入営しました。入隊して一番苦労したことは字が十分かけないことでした。消灯後、寝床の中で一生懸命字を習いました。

人に負けることがきらいな性分でしたので、おそくまで起きていて週番下士官に注意されたことも再三ありました。一生懸命御奉公したお蔭で成績も上の方で除隊いたしました。

除隊後は墨田区吾嬬町東三ノ六に世帯を持ち再度食肉店をいとなみました。

間もなく支那事変が始まり私も北支へ応召しました。北支に於ける軍隊生活は大変貴重な体験でした。

千人以上の支那人を使う班長として鉄道の建設に従事したときは能率班長の異名をとる程、功績をあげましたので、隊長より特に懇請されて除隊を延長され階級も特進し、 エ兵伍長に任ぜられました。

内地へがいせん後は、軍隊の経験を大いに生かしました。当時、他の肉店にはあまり使っていない最新式の冷凍機を購入し、食肉の長期保存に効果をあげましたので他の肉店もこぞって冷凍機を使い始めました。

九人の子供達もそれぞれ小学、中学と苦しいながらも教育も人並みに健康に育ちましたが大東亜戦争の戦況も悪くなり東京の空襲もひどくなって私も警防団長として家業をなげうって防衛のために働きました。

まもなく終戦となり、私の店も戦災のため消失し一時は途方にくれましたがこれからの時代は食生活が改善されて食肉の需要が益々ふえることになると思い、将来の発展予想地である葛飾の現在地に店舗を求めました。

 

終戦後の混とんとした経済情勢の中で私は星の出ている夜明けに起き、荷の仕入に近県、近在を足を棒にして歩き廻りました。

信用第一を念願に、いつも決済は固く約束を守り荷主や、お得意さんに 一日なりと遅れたりしないので信用を増し、商売は、日増しに多忙となり、本店の他に金町、松戸に営業所を新設し、ハムエ場も作り食肉資源の無駄をなくし、同時に松戸と畜場も買収して、と場の整備、近代化に没頭いたしました。

その間、 別紙の通り種々の表彰をうけましたが、私はただひたすら、この食肉生活四十五年間、業界の発展向上と、と畜場の浄化設備の改善、近代化、血粉肥料の改良発明、食肉と畜場に対する、一般人の正しい認識の徹底、と畜従業員の地位の向上等々寝食を忘れて業界のため会社事業発展のために身体も、精神も、つかい果たしました。

思えば、私が九才の年に故郷をい出て、五十六年間、片時も故郷のことは忘れませんでした。

苦しい生活の中を何ものにも優る丈夫なからだを育んでくれた両親の愛情と学校は二年間だけではありましたが私を訓育して下さいました郷里の方々の恩恵に対し、いつも何かお報いしたいと念じながらこの道一筋に今日まで働いて参りました。

以上、 私の歩んできた道でございます。これからも丈夫になれば尚一層のことが出来ると人事益が何卒、私の真意をおくみとりの上、殿下並びに蓮沼の村民の方々のお役に立てば望外の幸せでございます。

昭和四十一年十二月七日 

荒井熊吉